« ビル・ヴィオラ展「はつゆめ」オープニング|田中純 | メイン | 幽霊的イメージの時間——ビル・ヴィオラ展「はつゆめ」にふれて|門林岳史 »

2006年10月14日

10月12日に編集会議、ラインナップをほぼ確定する。精神疾患の臨床と言説の関係が、どのくらい反省されてとらえられるか、反応が期待される。病院建築の取材は個人的にもとくに関心のあるところ。メールによるジョアン・コプチェク氏へのインタビュー、(残念ながらなくなりました。2006.10.18追記)バリバールの翻訳なども企画中。レオ・シュピッツァー(スピッツァー)の論文を取り上げることも決定。研究史における古典の翻訳は少しずつでも続けてゆく価値があるだろう。T.J.クラークの新著書評もふさわしい人物に依頼する予定。投稿論文は随時募集中である。

連載については、資料の山が築かれてゆくばかりで、途方もないものに深入りしてゆく予感がしている。ヘフラーだけにかぎっても、古代・中世のゲルマン神話や文学、民俗、法制を知らなければならないわけで、ルーン文字の解釈まで含むのだから、底が知れない。もとより、すべてを極めつくすのは不可能であるし、そもそもの目的はあくまでいわば「20世紀の神話」の分析にある。しかし、それにしても、単純にイデオロギー的偏向をあげつらうような結論にいたらないためには、ヘフラーの研究対象の意義を再評価できる地平を拓かなければならない。
深みにはまるのはヴァールブルクで経験済みのことでもある。何しろヨーロッパ数千年のイメージ記憶がそこでも問題だったのだから。「ムネモシュネ」の解読を遅々たる歩みで進めながら、そこに集められた図像群が、ヘフラーやデュメジルと交錯するグルーピングを可能にすることに気づく。その一端はダミッシュが『パリスの審判』で論じていた。各領域が交差するこの「あわい」を凝視しなければならない。
今回はあまりに自分の関心に引きつけすぎるような気がして提案を控えたものとして、ピエール・クラストルの「未開戦士の不幸」の翻訳がある。『暴力の考古学』(現代企画室)に紹介解説はあるが、大した長さではないのでむしろ翻訳されるべきだろう。デュメジルの『戦士の幸運と不幸』と対にすることで、クラストルが問題にした対象の輪郭はより明確になるように思われる。どなたか、すでに翻訳したとか、計画をお持ちの方はいないだろうか。
ヘフラーの読み直しには、『ホモ・サケル』におけるアガンベンの考察を、その前提に遡って考え直してみたいという動機もある。ところでこのところ、アガンベン氏を日本に長期招聘しようという動きが起こりそうな気配。世間の大方の関心とは違う部分においてながら、自分にとっても目が離せない思想家なので、是非実現を期待したい。実際に会って話した方によると、カッチャーリの名前を出すと不機嫌になるとか。さもありなん。イタリアらしい、ミクロな政治も感じさせる(カッチャーリ氏の日本での講演などにも、アガンベンやネグリへの批判があった)。アガンベンが世界的な知的スターになる一方で、カッチャーリはイタリアのローカルな、しかし政界まで含めたスターというところか。もちろん、政治的な立場の違いも大きいだろう。ともあれ、流行のアガンベンとは異なり、カッチャーリはまず絶対日本では広く読まれない哲学者に違いない。